宇多天皇と飼い猫の小説『天邪鬼な皇子と唐の黒猫』ーツンデレ猫日記を書いた天皇と黒猫の物語
宇多天皇と黒猫の物語『天邪鬼な皇子と唐の黒猫』がポプラ社より1月10日に発売されました。書店によっては画像右のような小冊子が無料で配布されています。【追記】「Web asta*」で本作の一章を試し読みできるようになりました。
そうですね。
唐(中国)から来た人語を解せる「おれさま黒猫」と、皇子(宇多天皇)との奇妙な共同生活を中心に、大きなところでは歴史的事件あり、小さなところでは京都の猫たちの生活ありと、すべての猫好きの人たちと京都好きの人たちへお届けしたい作品です。ちなみに筆者の実家も京都です。
宇多天皇は平安時代の天皇です。「学問の神様」で知られる菅原道真を抜擢して、「寛平の治」と呼ばれる治世を築き上げました。
「日本最古の猫日記を書いたツンデレ天皇」としても一時期話題になっていましたね。この日記は『寛平御記』といいます。
本作は『寛平御記』に描かれた黒猫と宇多天皇が織りなす波乱万丈の痛快平安ストーリーです。
今回は宇多天皇の生涯や業績、ついでに黒猫のことをわかりやすく解説していきます。
宇多天皇の生い立ちと黒猫
宇多天皇は第59代目の天皇です。貞観9年(867年)5月5日に生まれました。
宇多天皇の父は光孝天皇です。宇多天皇は7番目の子でした。
宇多天皇の諱(いみな。本名)は定省(さだみ)といいます。小説内ではわかりやすくするためにこの名を使っています。
じつはそうでもないのです。
宇多天皇の父・光孝天皇が即位したのは50歳半ばでした。それまでは不遇な生活をしていたといわれます。
吉田兼好の著した『徒然草』第百七十六段には以下のような文章があります。
黒戸は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人ひとにておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営いとなませ給ひける間まなり。御薪みかまきに煤すすけたれば、黒戸と言ふとぞ。
小松御門(こまつのみかど)は光孝天皇のことですね。黒戸は、宮中の清涼殿にある「黒戸御所」のことです。意訳すると以下のようになります。
黒戸(黒戸御所)は、光孝天皇が即位してからも、かつてただの人(一般人)だったときのことを忘れないようにと、いつでも炊事ができるようにした場所である。薪で煤けていたので、「黒戸」と呼ばれるようになった。
天皇になる前は自炊生活をしていたので、その苦労を忘れないようにしたのでしょう。
当時権力のあった貴族、藤原基経(ふじわらのもとつね)によって即位させられました。小説でも主要登場人物になっています。
光孝天皇の前の天皇は陽成天皇といい、9歳で天皇に即位しました。
当然政治などできるわけもありませんので、実際の政治は基経らがおこなっていました。
陽成天皇の母は基経の妹・藤原高子です。しかし基経と高子の仲が悪くなったことで、陽成天皇は廃位させられることになりました。
その後釜として即位したのが宇多天皇の父・光孝天皇です。50歳半ばで急に即位したのもこれが理由です。
そんな良いものでもありませんけどね。権力者の都合で即位させられたり退位させられたりしているのですから。
光孝天皇も自分が基経の操り人形であることは重々承知なのでしょう。だからこそ、一般人だった時のことを忘れないよう、謙虚に振る舞っていたのだと思われます。
猫日記こと『寛平御記』で描かれる黒猫と宇多天皇が出会ったのも、光孝天皇が即位してまもなくです。
黒猫は、太宰府の源精(みなもとのくわし)という人物が、訪朝のさいに光孝天皇に献じたものです。
当時の日本では、黒猫はめずらしかったようですね。
宇多天皇はこの黒猫を光孝天皇から賜りました。『寛平御記』では「先帝から賜ったので、仕方なく飼っている」と最後に書きながらも、黒猫の容姿を褒めたり毎日乳粥を食べさせたりといった溺愛ぶりが記されています。
小説では、唐(中国)・蘇州の黒猫が、海を渡って太宰府に着き、京都の光孝天皇に献上されることになります。
定省(宇多天皇)は父・光孝天皇に謁見したとき、この黒猫を嫌々ながらも預かりました。ここから一人と一匹の奇妙な共同生活が始まります。
臣籍降下からの天皇即位
これもそう簡単ではありませんでした。
なぜなら、光孝天皇の即位後、元慶8年(884年)6月に宇多天皇は臣籍降下されてしまったからです。
皇族ではなく、臣下の籍になったのです。ようするに天皇家の者ではなくなったということですね。
天皇のあとを継ぐことができるのは天皇家の者だけなので、その資格を失ったことになります。光孝天皇の子ら全員がこの対象になりました。
陽成天皇の弟、貞保親王を次の天皇にするためといわれています。こうすることで、嫡流に皇位を戻すことができます。
臣籍降下した宇多天皇は、「源」の姓を賜って「源定省(みなもとのさだみ)」となりました。
これもまた権力者である基経の都合ですね。
光孝天皇は即位から3年後、仁和3年(887年)に亡くなります。
基経としては、仲の悪い高子の子に帝位をあたえたくはありません。
そこで宇多天皇を皇族に復帰させ、翌日に皇太子とし、その日のうちに践祚(せんそ。天皇の位を受け継ぐこと)しました。
それだけ基経に権力があったということです。
こうして宇多天皇は即位したのですが、まだまだ困難が待ち受けています。
関白と阿衡事件
宇多天皇は即位後、基経を日本初の「関白」の位に付けようとしました。
歴史の授業でよく耳にする「摂政」と「関白」ですが、違いを簡単に説明すると以下のとおりです。
摂政:幼い天皇に代わって政治を行う。
関白:天皇の年齢に関係なく補佐する役割。ただし最終決定権は天皇にある。
宇多天皇は関白の任を手紙にしたため、「阿衡(あこう)の任を以て卿の任とせよ」と書いて基経に送りました。
中国の商(殷)の時代に、伊尹(いいん)というすぐれた政治家がいました。その伊尹が任じられた官が「阿衡」です。
ようは「基経が伊尹のようにすぐれた政治家である」と遠回しに賞賛しているのでしょう。
ところが文章博士の藤原佐世という人物が、「阿衡は有名無実の職」と基経に告げ口をしました。
基経は宇多天皇の手紙を不服に思い、職務放棄をしてしまいました。ボイコット、つまり仕事をしなくなったのですね。これによって国政が滞ることになったのです。
この解決に助力したのが菅原道真です。基経が亡くなったのち、宇多天皇は道真を重用します。
それと、のちに道真を大宰府に左遷させたのは、基経の子の時平(ときひら)です。道真は太宰府の地で没し、現在では太宰府天満宮で「天神様」「学問の神様」としてまつられています。
宇多天皇と仁和寺
京都の仁和寺(にんなじ)は、宇多天皇にゆかりある寺院として有名です。場所は京都市の左京区です。現在は真言宗御室派の総本山になっています。
中学の国語教科書に、『徒然草』の「仁和寺にある法師」の物語があるので、名前を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。
仁和寺は光孝天皇の勅令で、仁和2年(886年)に建立が始まりました。
光孝天皇は翌年の仁和3年に崩御してしまいます。そのあとを継いで建立を進めたのが宇多天皇です。親子二代でおこなった事業といえるでしょう。
仁和寺が完成したのは仁和4年(888年)です。正式名称は「西山御願寺」なのですが、仁和年間に造られたことから「仁和寺」と号されました。
宇多天皇は退位後に出家し、法皇となって仁和寺に住みました。これらのことから仁和寺は宇多天皇にゆかりある寺院となったのです。
また初代の仁和寺別当(寺院の長)は天台宗だったのですが、宇多天皇が真言宗であったことから別当が真言宗の者に代わりました。以来、現在まで真言宗として続いています。
宇多天皇の子どもたち
小説にも登場する宇多天皇の子どもたちですが、このうちで天皇になったのは第一皇子であった醍醐天皇です。母親は藤原胤子ですね。
醍醐天皇の諱は維城(これざね)といいます。宇多天皇が臣籍降下したときに生まれた子です。
つまり皇族の生まれではありません。
じつは、天皇家以外の生まれの者が天皇になったのは、日本史上で醍醐天皇だけです。
生まれたとき、宇多天皇は「源」の姓なので、醍醐天皇は「源維城」でした。
皇族になったのは、宇多天皇が即位した仁和3年(887年)ののちです。寛平元年(890年)には敦仁(あつひと。「あつぎみ」とも)に名を改めました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に醍醐天皇に譲位し、そののち前述したように出家しています。
醍醐天皇も父・宇多天皇とおなじくすぐれた天皇で、道真と時平の補佐のもと、「延喜の治」という治世を築き上げました。
文化振興にも力を入れ、国家事業として勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂を紀貫之らに命じています。
ただ、時平の讒言を聞き入れ、道真を太宰府へ左遷させてしまったことにより、評価を落としてしまっています。
まとめ
日本史上でも名君として知られる宇多天皇ですが、その一生はけして平坦なものではありませんでした。
父・光孝天皇が即位したのも、そして宇多天皇自身が即位したのも、すべては権力者や政局にふりまわされてのことでした。
また現在では京都の観光名所となっている仁和寺も、光孝天皇と宇多天皇、親子二代かけて完成させたものです。
宇多天皇と黒猫、一人と一匹の奇妙な共同生活を描いた波乱万丈の痛快平安ストーリー。ぜひともご一読のほど、よろしくお願いいたします。